日々のはなし

鳥取のゲストハウスで考えたはなしとちょっとの美術のはなしをしようと思います。

20190701

午前一時半。

酔っぱらったわたしたちは、コンビニでお酒を買い、猫と戯れ、湖畔でギターを弾いた。

ひとり、またひとり帰って行って、わたしたちだけになった。

 

ねえ、知ってる?わたし、あなたのこと好きなんだよ。

どういう好き?

そういう好き。

俺にはもっと好きな人がいる。

 

要するに、またわたしは振られたわけだ。

でも、どういうわけか、前もそうだったけど、心にぐさっと刺さるような悲しみも苦しさもない。だって、あなたがわたしのこと好きだって、言葉以外ものが言ってるから。

 

5年後にお互い付き合っている人がいなければ付き合おうって約束してるから。今は恋愛しようと思えないし、あと、3年待ちたい。

それって、なんかさ、呪いみたいだね。

そうかも。

ねえ、その呪い、わたしなら解けるよ。

何言ってんの。

わたし、絶対その呪い解けるよ。

なんでそんな自信満々なの。

なんでだろうね。

俺も意志曲げるつもりないよ。

 

その言い方がもう意志弱いのみえてるのに。ばかだな。意志なんて、頭で考えた理屈なんて、そんなの吹き飛んじゃうものなのに。

 

どうやって呪い解くの?

わかんない。

俺はどうしたらいいわけ?

わかんない。けど、あなたが輝いてる姿を見たいってことだと思う。体と心の声に素直になるってこととか。

性欲ってこと?

違うわ、ぼけ。

 

ふいにキスをしてみる。前みたいに驚いてくれたらよかったのに。寸止めにすればよかった。

 

とにかく、俺には今好きな人がいるから。

あ、そう。

全然届かないね。

わたしの言ってることだって届いてないじゃん。

 

そう言ってわたしたちは笑った。

分かり合えなさを笑い飛ばせた。

午前五時半。

 

ゴードンマッタクラーク

基本的な回顧展。作品のスタイルごとに編集。記録写真や映像が多数展示されていた。

パフォーマンス的な要素や、建築事態を使っていることによって残すことが困難な作品。仕方がないけれど、わたしは「生」を感じることがあまりできなかった。スプリッティングの一部を目にしたときは気持ちが高まるのを感じた。

おもしろいことをしていたことは伝わる。だからこそ、そのとき見ることができなかったことにかなしくなる。

わたしは、今、同時代のそういうものをたくさん目撃しないといけないと思った。アンテナを張り巡らせないと。

再現や記録、そういうことがどんどん高技術で可能になっていく世界だとしても、そこに「生」を感じることができるのは、どうしてもその一瞬だけだと思うから。

だから私はスピードを求めることができないし、時間をかけることを大切にしたいと思うのかもしれない。

どうしてアートなんだろう。アートがいいんだろう。今に目を向けたい。

HAPPY HOUR

自分をしあわせにする方法を知っているとわたしは思っていた。

ある人に自分を幸せにする方法を知っているか聞いた。その人は知っているとは答えずに、その方法を答えにした。今が楽しいかどうかがひとつ、そして将来こうなりたいという方向があっているかどうかということ。

わたしにはその方向がよくわからなかった。今が楽しければ、自然と自分のなりたい形になるはずと思っているから。ただ、その楽しさっていうのは、ただただ人と騒いだりとかじゃなくて、もしかしたら苦しいことも含まれることであって。

こうなりたい方向性っていうのは、今をある程度制限するためにその人にとっては必要なんだと思った。

冨井大裕「コンポジション―モノが持つルール―展」ATELIER MUJI

3年前、国立新美術館で行われた「アーティスト・ファイル 2015 隣の部屋――日本と韓国の作家たち」で冨井さんの作品を初めて見た。私が現代美術を見てきたなかで1位、2位を争うくらい心が動かされたのを覚えている。

わたしたちがふだん使っている日用品・既製品を用いて、その形がほぼ損なわれないような形で「作品」にさせる。日用品に対する視線・見方を変化させる。そのかたちはわたしの目にはとても美しく見えた。それでいて、ユーモアやジョーク的な部分も垣間見える。それ以来、わたしにとってずっと気になる人・作品になっている。

学生時代には授業のレポート内で冨井さんの展示を企画したり、進級論文に取り上げたりしていた。そんなふうに冨井さんのことを言葉にすることを試みたこともあったけれど、ずっと、腑に落ちることはなく、言葉にするたびに零れ落ちていくものがたくさんあることを思い知らされた。

今回の展示は無印良品の商品を使って組み合わせ、変形させることによって作品をつくる、と同時にその作品をつくる方法「指示書」を展示している。

作家ステイトメント「つくるということ」がとてもかっこいいなと思った。「つくることをつくっている(つくろうとしている)」という言葉がとても腑に落ちた。これらの言葉は普段冨井さんの作品を見てきている人たち以外にも向けられているように思って(有楽町の無印良品のお店の一角にあるスペースだし)、この言葉のやさしさに、強さに、伝えようという意思にとてもかっこいいなと思った。多くの人に伝わっているといいなと願うと同時に、お店にいるお客さんの数に対するこのスペースの人の少なさ・向けられる視線の少なさに悲しくもなる。それでも、冨井さんのその意思はひしひしと伝わっている。

指示書を展示することは見方を変える見方を示していることのように思った。よくいえば、見る人にとってやさしい(深く考えなくて済む)けれど、わるくいえばわかりやすすぎる。場所がギャラリーや美術館ではない、美術になじみのない人でも来られる場所ということを考慮すると、その態度は正しいのかもしれない。ネタバラシ感があったのは確かで、ただ、その良し悪しを私には決められないと思った。

再構成・編集のはなし

じゃたにさんとこんな話をした。

はなしの発端はARTZONEでの「ゴットを信じる方法」。そこで行われた作品の再構成について。ものを再構成すること、この時代のこの世界ではもうあたりまえにされているのかもしれない。場をつくること、それは映像の中では編集によって簡単にできるということ。エイジング加工。プログラミング。山城さんのHUMAN EMOTIONSの再展示。ピロウズリバイバルライブ。

じゃたにさんに言われるまでわたしも気づかなかった。それくらいあたりまえの世界になってきているのかもしれない。

以前作ったものを同じようにもう一度つくること。そこに生じるわずかなズレ。それが何を意味するのか、意味していくのかは今はわたしにはわからない。

今のものじゃないものを蘇らせることのできる技術があること。それって、すごくない?今の世界、やばくない?

じゃあ、その世界で私たちはなにをしていこうか。なんでもつくれる世界で、わたしはなにができるのだろうか。そう思ったとき、わたしたちがやっているのはその流れと逆方向に向かうことだと思った。そうわかると、なぜか安心した。わたしは、それを選んで、ここにきている。

 あまのじゃくな私の性格だから、時代の最先端からできるだけ遠ざかりたくなる。

 

 

 

 

旅のはなし

どうして人は旅をするのだろう。

先日、久々に鳥取を抜け出して、都会に遊びにいきました。鳥取にはない高層ビルが立ち並ぶ風景。こういう世界で生きている人たちがたくさんいるんだなあと頭の片隅で思いつつ、好きな美術展を巡ったり、お店に行ったり。

おおまかな予定だけ決めて、ふらふらする。最初に行ったお店では、半年前に仕事で出会ったとても好きなお姉さんに偶然出会えた。その帰り道はバスを逃してしまったので、歩いて駅まで向かってみる。丘をひとつ越えるその道は、都会のまちを見渡せる素敵なルートだった。

ずっと見たかった作家さんの展覧会では、偶然本人もいて、久しぶりに会えて、とても嬉しかった。ついでに一緒にお茶もして、いろいろな話をした。これまでの作品の話とか、その場所の話とか、わたしたちの今の話とか。

わたしがこれまでやってきたこと、無駄じゃないと思えたし、大事にしようと思えた。わたしが出会ってきた人、とても素敵な人ばかりで、そういう人たちと一緒にこの世界を生きていきたいし、未来をつくっていきたい。それに、鳥取に来てから自然と身についたことを意識できた気がする。これからしたいことがなんなのかというヒントももらえた。こういう偶然の出会いによってわたしの思考は更新していく。

そして、ここに来るときは毎回会う人と朝まで話す。その人といると、私の想像以上のことが起こっていくから、いつもどうしたらいいかわからなくなる瞬間がある。でもそれも楽しい。未来のためになにができるかな。この人と一緒にいつかなにかしたいとずっと思っている。

鳥取にいることはとても心地いい。住むのにはとてもいい場所だ。旅人がたくさんくるからいろんな話もできる。でも、わたしは、ずっとそこにいてはいけない。時々抜け出して、自分の目でいろんな世界を見に行かなきゃいけない。自分をわくわくさせるために、自分の価値観を更新させていくために。日常へのまなざしを変えていくために。そのために、わたしは旅をする。

技術のはなし

再構成のはなしの続きなんだけどね、

じゃあ、この技術がすごいスピードで進歩し続けているこの世界で、このタイミングで今生きている私はなにができるんだろう、なにをすることを選ぶんだろう。

今選んでいるこの場所そこで学んだことをこの先どう使っていくのだろう。それをじゃたにさんもみやけさんも楽しみにしているんだろうな。ふたりの想像を超えた世界をわたしたちがつくっていくんだな。

じゃたにさんは、技術を持たないことを選んだと言っていた。たしかに、たみにいると忘れがちだけれど、デジタルになっていく世界に対してここはとてもアナログな場所。そう思うと、デジタルな世界でがんばっている人に対して少し感じていたうしろめたさも、自分で選んだことなんだと、胸を張っていられるようになる。

そうやっていろんな世界を知ることは、自分の立ち位置を相対化してくれるし、自分が選んできたことの理由にもなる。背中を押してくれる。

ただただ、田舎がいいから来たわけじゃないんだよ。この世界で全然想像のつかない場所にいたいから、わたしはここに来たんだよ。