日々のはなし

鳥取のゲストハウスで考えたはなしとちょっとの美術のはなしをしようと思います。

10年後のはなし

先日、たみに社長が10年前にお世話になった人が訪ねてきました。そんなふうに社長も今いるスタッフがどうなっているか10年後に訪ねてみたいそうです。

ひとりは、10年後も明るい髪色のままで誰かとごはんを作って食べていたいと言っていました。ひとりは、10年後は子どもが高校生になっていて、お弁当作りにはまっているだろうなと言っていました。他の人にもたくさん聞いてみました。結婚していたいなとか、子どもと遊んでいたいなとか、今の仕事でこんなことが出来るようになっていたいなとか。

わたしは10年後、なにをしているかなあ。いろいろ考えました。実は、この質問、うかぶに入社するときにも聞かれました。一番答えるのに困った質問だったけれど、自分の思っていることを一番素直に話せる質問でもありました。

結局のところ、その答えは「わからない」なのです。

これまで生きてきた中でも、10年後、いや1年後すら、思っていたことの外にあることをやっている。(だって、1年前鳥取にいるなんて微塵も思っていなかった)それが自分にとっておもしろいことだなと思う。計画性がなさすぎると言われるのもこのせいなのかもしれないけれど、わたしは10年後、今自分が少しでも想像できること以外のことをしていたい。自分の想像を超えたことをしていたい。目の前にあるたくさんの選択肢の中でいつもいちばんにわくわくすることをしていたい。「わからない」ことをめいいっぱい楽しみたい。

 

いろんな人にこの質問をしたなかで、ひとりだけ、「わからない」と答えたひとがいた。きっと、その人とは10年後も会えると思った。

中崎透「耳たぶのかさぶた/The Earlobe Scab」Art Center Ongoing

中崎さんの作品を初めて見た。

札幌の展示「シュプールを追いかけて」や看板の作品などはちらっと画像で見たことがあったけれど、実際の作品を見るのは初めてだった。それらの作品は割とリサーチに重きが置かれていて、インタビューや博物館的な”モノ”が中心にあって、どちらかというとキュレーションに近いことをしているようだと思った。クールなイメージ。

今回作品を見るとき、そういうイメージは頭にはなく、どちらかというと中崎さん本人がどういう人だったのかを思い出しながら会場に向かっていた。

初めて会ったのは、ナデガタプロジェクトのときだった。わたしのナデガタのイメージは「お祭り」で、中崎さん自身のイメージも割とそんな感じ。陽気で明るくて、それでいてアーティストの”やばさ”もあって。

今回の作品はそういう感じだった。中崎さん自身がそのままそこにある感じ。これまでのOngoingでの展示ではその会場の特徴やそこにあるものをベースにそこから展開させていく作品を作っていたそうだが、今回は自分の興味・気になることをとにかく突き詰めているようだった。それが「耳たぶのかさぶた」だそう。「頭の片隅にこびり付いている感じ」言い得て妙だなあ。

でもその気になることを突き詰めるって、ものを作る・表現するときに直面する辛さの中心にあるもののような気がしている。だから、これを作るのは本当は結構しんどかったんじゃないかなと思ったりもした。それでも、作品はとても軽やかで冗談みたいで、それでいてどこかちくりとするようなところもあって。中崎さん自身の興味の深さも見えるような気がした。とても熱を感じるもののあれば、すごく冷めた視線が投げられているものもある。それぞれの距離の取り方があって、ひとつに集中する必要もないし、熱くなきゃいけないこともない。なぜか、全てを肯定しているような、それすらも超えたようなところにいるような気もした。

言葉とものの対応が作品の構造に含まれているのも面白いなと思った。タイトルでもあるけれど、説明でもあるけれど、それは作品の一部であって、外側にあるものではない。言葉があることによって、ものの見方が変わったりする。その体験も含めて作品なのだろう。これまでの作品でもインタビューの文章が作品に含まれていたりする。でも今回は、そういう客観的な、冷めた感じのものではなく、自身の素直な興味という感じが言葉にも表れていたように思う。